──ゆっくりと動いているように見えた馬群がとつぜん宙を飛んでいるように見え、遠くではつまっているようだった先頭と後尾の馬の距離が広がり、勝つ見込みのある馬と負ける馬がはっきり分かれた。野性の馬が柵のない平原でやるように、若駒が人口の走路の上で原始的本能を発揮し、先頭に立とうと首を突き出して懸命に走っている。これが競馬の心髄だ、と私は思った。野性の力でレースが成り立つのだ。興奮し、感動する……美しい。

（『証拠』より）

──馬房にいるブルーネレスキは、何も気にしていないようだった。どうやら、シルヴィオ・ルーケゼが、気難しい馬の好みで食欲が減退しないよう、チャンピオン自身の食物をイタリヤからもってきたらしい。そのせいか、ブルーネレスキは昨夜かいばをきれいに食べ（いい兆候）、機嫌の悪いときにたまにやるように厩務員を蹴るようなことはしていない。みんなが、強力な白い歯を恐れて脇の方から首を叩いていた。不機嫌な暴君のような傲慢さを私は感じた。水をどう思っているのか、誰もきかなかった。

（『奪回』より）

──ベリナは、そのような複雑な気持ちにいっさい関わりなく、彼女としては最高の荒れ方でパドックからスタートに向かった。荒れ方と言っても、派手に首を振ったり、爪先で踊るような格好で横へそれたる程度である。そのような仕草はいい兆候であった。気分が乗らない時は、ベリナはおとなしくスタートに向かい、さしてやる気もなくスタートし、最後まで自分のペースで走る。

（『侵入』より）

──ジェリイ・スプリングウッドは、背中を丸めてぐったりと鞍に座っていた。騎手の気分に敏感な馬は、彼のかわりに観衆の興奮に応えるべきか決めかねて、途方にくれたままとぼとぼと歩いていた。オースティンや他の大観衆の目には、馬と騎手のそのような状態は、負けるための条件が完全に整っているように見えた。ウィリアム・ウェスタランドは残念そうに首を振り、クリスピン警視正は、あれだけの数の馬の中でどうしてあの馬だけが半ば眠っているように見えるのだろう、といらだち不思議がっていた。

（「敗者ばかりの日」より）